水色ブログ。

水色をこよなく愛する、 40代女です。 のんびり気ままに綴ります。最近は親の介護の話題ばかりです。

2022年スタート。

ブログ更新怠っておりました…。母の介護の事、備忘録として細かく綴って行こうと

思っていましたが、どんどん日々が過ぎて行き、追いつけそうにないので、これまで

の状況をサッとまとめて記すことにします。

 

昨年6月に緊急入院、7月に救命病棟からリハビリのできる病院へ転院。

リハビリできる状況ではなく、ほぼ寝たきり状態でせん妄も起こり、この先

どうなるのだろうと思っていましたが、8月に入り病状は安定。リハビリも

できるようになりました。ここから母はものすごい奇跡的回復を見せて

くれました。

ほぼ寝たきり状態が2カ月ほどあったものの、歩行や階段の昇り降りまで

できるほどに。退院へ向けて、ケアマネさんと相談し、介護の再認定も申請

しました。介護度は1から3となりましたが、9月上旬に無事退院しました。

 

翌日から今までどおり、デイサービスにも通うようになりました。

また元通りの日常を過ごしています。

たくさんの病気をかかえ、リウマチで骨も曲がってしまい、最高50キロ代

後半まであった体重は、33キロになりました。

それでも食欲は旺盛。恐るべし、私の母。

母、転院後7月下旬のこと。

母と面会し、状態の悪さにガックリしたところでしたが、

それからしばらくして、母から私の携帯に着信が。

看護師さんにかけてもらったようで、電話の向こうで

「はい、繋がりましたよ~」と声がして、母。

「なんでお父さんをあそこに連れて行ったの!

 私が行こうと思ってたのに!お父さんにそんなこと

 させたらダメよ!」

私は何のことかわからず、

「じいやをどこに??どこのこと?」と聞き返すのですが、

「あんたも私の言ってることわからないんやね!あんたもボンクラやね!

 もういいわ、帰ったら話す!」と一方的に電話は切られてしまいました。

私は仕事中。でも何があったのかと気になるため、病院へ電話してみました。

看護師さんが、「お母さん、元気になってきたのだけど、最近はこんな感じで

興奮状態になるんです。あ、でも元気なんですよ。」と。

モヤモヤとしたままでしたが、こんな内容の電話がしばらく何度かかかって

来ました。早朝にいきなりかかってくることもあり…。

結局、この症状は、長く入院して寝たきりの状態が続くとおこる「せん妄」という

症状だったようです。本人には全く記憶がないそう…。

 

母に40数年育てられてきて、「ボンクラ」と呼ばれたのは初めてのことで、

本人にその意思がないとは言え、私にはちょっとしたダメージでした。

こんな言葉を吐き捨てられて、このままお別れになってしまったら、私はずっと

この事を引きずっていくのかなぁ、なんて思ってしまいました。

7月下旬のことでした。

母、リハビリ転院後…。

母がリハビリで転院し、一週間後に主治医の先生との面談。先生曰く、

正直、リハビリができる状態ではないと。転院後、さらに状態が

悪くなり、日中も酸素マスクが必要になっていて、前の病院から

リハビリのための転院でしたが、ここまで状態が良くないと思わなかったとのこと。

前の病院から追い出された??そんなことふと思ったりして。

先生からは、できるだけ面会して会ってあげて欲しいと。

私と姉はまだコロナワクチンは未接種だったため、面会するために

コロナの検査を受け、陰性と判明してから病室へ案内されました。

 

転院の時に会った時とは全く違う状況。寝たまま、酸素マスクを

付けられ、目はうつろでした…。話しかけると若干反応はあり。

「喉が渇いた」と何度も言うので、姉と私で何度も水を飲ませて

あげました。高熱も出ていたようで、喉が渇いていたようで。

 

リハビリの転院じゃなかったのか??なんて思いながら病院を

後にしました。

母、転院。

救急搬送されてから約4週間。

リハビリのできる病院へ転院となりました。車で10分もかからない

場所でしたが、車椅子での移動のため、介護タクシーで移動。

転院先の病院は2年前にもリハビリで入院していた所でした。

ただ今回はコロナのために面会はできず、病室へ移動した母とは

またしばしのお別れです。先生からは、まず本人がどれくらいリハビリ

できるのか見てみないと分からない。ただ100%家には帰れる可能性は

ないとのこと。私は「え!そうなの?」と。

メインの臓器、心臓・肺・腎臓・肝臓がすべて悪い。今後様子を見て、

私がどの程度まで回復すれば、家で見られるのか、考えておいてくださいと

いわれました。

7月上旬、まだまだ落ち着かない日々でした。

集中治療室から。

意識は戻ったものの、人工透析が必要になる不安をかかえたまま、

またしても病院からの連絡を待つ日々。

緊急搬送されてから約一週間、色々と状況が変わり、家族は色々と

決断をせまられる日々でした。

また病院からの電話があり、尿が自分で出せるようになり、人工透析

必要まではなくなったとのこと。日中はマスクを外せるようになったので、

今日は車椅子に座って少し移動したとのこと。

驚きでした。すごい!母の回復力!!

それから一週間後には、一般病棟へ移ることができました。

荷物を持って行ったときに、遠巻きに母の様子を見ることができました。

糖尿病で白内障の手術を受けているにもかかわらず、視力が1.5ある母。

私の姿を見ると、ベッドの上から手を振ってきました。

「視力が1.5あるんよ!」と母は看護師さんに自慢していました。

頭は相変わらずしっかりとしていて、少し安心しました。

母のその後。

ブログ更新久しぶりとなります。

あれから色々とありました。

緊急搬送された母、当日の夜は意識がなくなりましたが、

数日後に意識が戻ったとのこと。呼吸が浅く、肺に圧をかけて

直接酸素を送り込むマスクをつけたままとのこと。

面会もできない状態。何かあれば病院から連絡しますとのこと、

落ち着かない日々でした。

また数日後に病院からの連絡があり、今の状況が改善しなければ、

人工透析をしなくてはならない。ただ、母は他にも色々と病気があり、

体力的にも人工透析はかなりの負担になるそう。そして何より、意識が

あるので、本人はかなりの苦痛を感じるだろうとのこと。どうします?と。

私としては、もう母は頑張ったから…。誰しもそうだけれど、とくに母は

痛いのが大嫌い。これまでもリウマチや糖尿病で痛い思いをしてきた。

でも私としては「処置はしなくてよいです」との即答ができなかった。

考えさせて欲しいと伝えましたが、すぐにでも人工透析が必要になることが

あるため、すぐに返事が欲しいといわれました。

 

一旦電話を切り、姉と相談。意見はやはり一致です。

翌日病院へ電話をかけ、

人工透析が必要となった場合は、それはしないように」と伝えました。

決断を迫られることばかりでした。

ある程度、元気なうちに話し合っておくべきだと思いました。

緊急入院のその夜。

母が緊急入院となり、身の回りの必要なものをとりあえず買って準備し、再び病院へ

持参しました。病室に入ってしまったため、荷物は看護師さんへ渡すのみ。別室にて、

万が一、心臓が止まった時の対応をどうするか、お母さまと今までに話したりしたこと

はありますか?と聞かれました。あらためて家族でそういった話はしてこなかったな。

冗談っぽく、死ぬときはぽっくり逝かないとね。なんて母親はよく言ってましたが。

その事も、なるべく早急にどうするのか決めておいてくださいと。

 

荷物を預けて、昼下がりでしたが、私は急遽抜け出した職場へ。これからいつ何がある

か分からないし、そうなった時のために仕事を色々と片付けていました。仕事を始めて

1時間ほどして、再び病院から電話が。

 

母の意識が無い状態になっている。一度会っておいてもらいたいとのこと。

来られる親族の方は皆さん来ていただいて結構ですので。

え?さっき病室へ入ったときは弱々しくも、目を開いて手を上げていたのに??

姉家族に連絡。息子や父にも連絡し、それぞれ病院へ再び集合。

 

酸素がかなり低い状態となり、今のところ意識がありませんが、

数人ずつで短時間で会ってくださいと。案内された病室で、母はいくつもの

管につながれ、酸素マスクをつけられ、目は閉じたまま、ほぼ眠っているような

状態でした。声をかけたら、すこし瞼がピクッとした様子。声が聞こえたのかな。

こんな状況でしたが、突然すぎて、なんと声をかけてよいのかわからず、

「ばあや!(息子が生まれてからこの呼び方)みんな来てるよ。頑張りなよ!」

それくらいしか言えず、まして最後の別れになるかもしれないのに、そんな言葉は

かけられず…。結局数分だけでしたが、全く反応のなくなった姿を見ただけで面会は

終わりました。

またなにか容体が変わったら連絡するので、常に連絡を取れる状態にしておいて

くださいと。

 

救命措置については、姉とも相談し、希望しないと伝えました。いくつもの病気を患い

長い間、辛い苦しい思いをしてきた母を思うと、それが一番良いのだと。それでも、

私たちがそれを決めてよいのだろうか、という葛藤。

延命措置をどうするか、これは本当に本人の意識がしっかりしているうちに、真面目に

話し合っておくべきだと思いました。でないと、いくら親族が話し合って決めたとしても、これで良かったのだろうか?という思いがずっとずっと残るのだと思います。

 

そして、しばらくはいつ緊急の電話が鳴るか、不安な日々となりました。