水色ブログ。

水色をこよなく愛する、 40代女です。 のんびり気ままに綴ります。最近は親の介護の話題ばかりです。

2022年10月のこと。

夏のコロナ感染から全員が完全復活を果たし、またいつもの生活に

戻りました。自宅療養中にかなり運動機能が落ちた母ですが、また

デイサービスに通い始めると、体力を取り戻しました。

そして10月。父がひとりで近所を散歩中に道路で転倒。杖をついて

歩いていたのですが、段差でつまづき、両手に擦り傷と左ひざの打撲。

擦り傷の手当をし、ひざに湿布を貼って様子を見ていました。

そして夜遅く、痛くて動けないとのこと。左ひざが腫れている…。

近くの病院でレントゲンを撮ってもらいましたが、骨折はしていないとの

ことでした。ただ、痛みで動けないので、父のトイレの介助まですることに。

夜中は尿瓶で対応してもらうことに。父と母、2人の介護、急に私にのしかかって

きたようで、私もその夜は眠れず…。これからどうしよう…。そればかり。

陽・陽介護、そして9月。

7月末から8月にかけて、我が家は次々とコロナに感染しました。

父が入院し、私、母、息子の3人は自宅療養。私は高熱でうなされていても

母の介護はせねばならず、本当に辛かった…。辛すぎてあまり記憶がありません。

陽性者が陽性者を介護する『陽・陽介護』と言うらしい。体力だけでなく、心も

疲弊してしまいました。

それでも皆重症化することはなく、今は元通りの生活に戻りました。

 

自宅療養の間、かなり運動機能が落ちてしまった母。再びデイサービスに通い

始めました。再開して数日は、体操せずに寝ていたり、「今日は行かない!」と

ダダこねたりしていましたが、体力も回復したこともあり、今は毎日通って

くれるようになりました…。

 

コロナでバタバタしているうちに、7月から8月になり、自宅療養が終わり

元の生活が始まると、お盆。3月に亡くなった姉の初盆もありました。

そうこうしているうちにもう9月。ようやく秋の気配を感じるようになりました。

 

母の介護が始まったのも、ちょうどこの季節。もう丸3年になります。

その間に、危篤状態にもなり、コロナにもなった母。奇跡的復活を何度も

こなし、介護生活はまだまだ続くのでしょう…。

 

 

 

一家全滅…。

 コロナ陽性となった父が入院。そして3日後に私と要介護の母が陽性。

我が家の最後の砦は息子のみ。そんな息子も次の日の夜に激しい喉の痛みが

あり、とうとう来たのか…と。翌朝には発熱もあり、検査の結果「陽性」と

なりました。

 ついに全滅です。我が家は完全に閉じこもっての自宅療養生活。

私は介護という任務があったおかげか、2,3日で症状も回復し、どうにか

動けるようになりました。

 気になるのは母の運動機能の低下。コロナに感染する前から、毎日

通っていたデイサービスで陽性者が出たため、すでにお休みの状態でした。

1日中家にいるため、食事以外はずっとベッドで寝ている生活です。

少し体を起こして、少しでも動くよう促してはみるものの、全く言う事を

聞いてくれません。私の母は、かなりの頑固者。頭がしっかりしているので、

適当なごまかしは効かず、かなりの毒を吐きまくる、そんな人なのです。

 ほぼ寝たきりの療養生活は、やはり良い方向へは進まず…。

 

そして発熱…。

父がコロナ陽性となり、同居の母と私、そして息子の3人は濃厚接触者で

原則5日間の外出自粛生活をすることに。

食料や飲み物はどうにか乗り切れそう、なんて思っていた3日目の夕方。

あぁ、なんだか身体が熱っぽい…。38.0℃…。あぁ、どうしよう。

保健所のホームページを見て、発熱外来のある病院を検索して、電話予約。

そして、その日の夕方、陽性と診断されてしまいました…。

カロナールと咳・鼻の薬が処方され帰宅しました。あぁ、こんな状況でも

母の介護は私がやるしかない。確実に母にも感染してしまうだろうな、と。

そして翌朝、母が発熱。要介護3で基礎疾患もある高齢の母。コロナに

耐えられるのだろうか?という心配…。解熱剤などの薬が処方され帰宅。

ここからが地獄でした。私は高熱にうなされながらも、母のお世話を

しないわけには行かず、食事の準備、トイレの介助等々…。

いつも以上にハードな介護&自宅療養の日々が始まりました。

 

濃厚接触者の生活

父が救急に運ばれ、コロナ陽性となり入院することになりました。

入院手続きのための書類を色々と記入してると、看護師さんから

娘さんは同居してるの?あぁ…。それは感染するかもね…。とにかく

感染力が強いからね…。なんてサラッと言われてしまいました。

それは大変に困る。聞かなかったことにしたいくらい…。

いつもなら、入院に必要な荷物を用意して持っていくところが、

この状況、現金5,000円を預けて、必要な物は病院で揃えてくれる

とのことで、早々に帰宅しました。

さて、濃厚接触者となる私と要介護の母、そして20代の息子。

その後保健所から連絡があり、私たちの外出自粛期間は5日間。

食料品や薬など必要な買い物は、短時間であれば可能とのこと。

今後を恐れて30分ほどで食料品を買い込み、ドキドキの自粛生活

が始まったのです。

 

我が家にもやってきた。

またしても久しぶりの更新です。

姉の四十九日、百箇日法要も無事に終わり、もうすぐ初盆かぁ、

なんて思っていた頃です。

 

早朝4時に下の階でゴソゴソと音がするので降りてみると、

父親が母親を起こして、朝食を食べている…。え!どうしたの?

こんな早く…。いつもは6時前ぐらいの朝食。どうやら時間を勘違い

したよう。この時は父親もゴニョゴニョ呟いて笑ってはいたので、

そろそろ認知も進んできたかな、なんて思いながら、私は再び眠りへ。

そして6時過ぎに起きると、廊下に父親が倒れておりました…。

触ってみてビックリ!ものすごい高熱…。私ひとりでは抱えきれず、

息子を呼び、どうにか起こしてベッドまで運びました。これは大変だ!

なんてバタついてるとほぼ同時に、向こうの部屋で母が叫んでる…。

行ってみると、おトイレ(大)を大失敗中…。ひょぇ~!しかもお腹

壊してるじゃん!こちらも大パニック状態。父はとりあえずベッドに

いるので、母の方を片付け。汗だくで父の元へ行くと、ベッドの上で

むせかえっている…。お漏らしもしてる。慌てて着替えさせ、熱を

測ると39.4℃。あぁコロナだ…。保健所に電話するが何度かけても

繋がらない。どうしよう、と担当のケアマネさんに思わず電話する。

救急車を呼んだ方がいいと言われ、ついに119番。

そして運ばれた病院にて、コロナ陽生、持病やがんの治療中でもあるため、

そのまま入院となりました。

 

全身に恐ろしいほどの汗をかいた私。暑いって理由だけでなく…。

ついに我が家にもコロナがやって来たのです。

姉との別れ。

私には5つ年の離れた姉がいます。先日、あまりにも突然に姉が亡くなりました。

結婚後、お互いに初めての出産が同時期に迎え、それからは姉妹というよりも、

ママ友のような存在で、何でも相談できる頼りになる姉でした。

 

体調を崩したのは今年に入ってからです。1月下旬に微熱が続き、2月上旬に

入院。この時に免疫系の病気と診断されたのですが、投薬治療で体調はかなり

回復しました。その後、荷物を届けた時に、歩行器を押しながら、

ナースステーションまで歩いてきてくれました。離れた位置で、少しだけ

会話をしました。これが姉との最後の会話になりました。最後だなんて、

私も当の本人も思ってなかったです。「じゃあまたね!」くらいの感じで。

 

数日後、姉の調が急変し、さらに大きな病院へ転院することになりました。

転院前の移動の際に、姉に会うことができたのですが、この時は意識が朦朧と

しており、「姉ちゃん!私だよ!頑張るんだよ!」と声をかけると、わずかに

うなずいてくれました。

それ以降は大学病院のICUに入り、面会は全くできない状態でした。

あまりの急変に信じられず、あの姿を見てもやはり信じられず…。

ICUに搬送されてから約2週間後、病院から呼び出されました。

病状を説明され、かなり厳しい状況なので、今のうちに会っておいた方が

良いという話。義兄さんと私の2人で、ほんの少しだけ姉に会うことになりました。

ICUに入ってからの2週間、どれだけ地獄のような苦しい思いをしてきたか、

その姿を見て愕然としました。先生は意識は無い状態と言っていたのですが、

私が会った時、姉の両目は開いていて、義兄さんと2人で声をかけ続けていると、

姉の目からひと筋の涙が流れていました。

ベッドの上で、ひとりでどれだけ頑張っていたんだろう、本当に寂しくて

不安で辛かっただろうね、と。

翌日、再び先生からの説明があり、すべての治療や投薬を最大限の状態で

行っているけれど、これ以上の回復は厳しく、姉の身体への負担が厳しい

とのこと。ここで義兄と私は、決断を迫られることになりました。

今の様々な装置を外せば、ICUから一般病棟の個室に移動し、家族が

数人ずつ交代で姉に付き添う事ができるとのこと。そうしてもらうことに

決めました。あの苦しそうな姉の姿を見た私たちには、この決断しか

できないな、と。

 

個室に移り、義兄さんと姉の2人の息子、そして私の4人で見送りました。

個室に移ってからは2時間ほどで旅立って行きました。

 

その後は、義兄さんと私は、悲しみに浸る間もないくらいに、事務的な手続き

や通夜・葬儀の準備に追われました。棺の中で眠る姉の顔を見ても、全く

実感が湧かないまま、姉はお骨となりました。

 

姉とは2人姉妹。家は車で20分ほどの距離。お互いの息子は同年齢で

仲良しの従兄弟3人組。今まで、一緒にたくさんの場所に行ったり、

パーティをしたり、息子3人がお泊りでお互いの家を行ったり来たり、

にぎやかな日々でした。楽しい思い出ばかりです。

 

お互い育児が落ち着いてからは、私たちの親の介護が始まり、姉も

病院の送迎など色々と協力してくれました。私たちの実家の事も何かと

話し合ってきたので、これからは私ひとりで決めなくてはなりません。

不安で寂しい気持ちでいっぱいです。

 

幸か不幸か、私の仕事は繁忙期となり、色々と考えるヒマもなく1日が

終わります。帰ってからはいつものように家事と親の介護があります。

淡々と同じ日常に戻りつつあります。

「こんにちは!来たよ~!」と姉がいつものように我が家に来てくれる

ような気がしてなりません。

 

お別れの言葉をかけあうこともできないなんて…。

でも、姉ちゃんはどこかそばにいて、こんなこと言ってそうだな、

なんて思ってしまうのです。

 

ホワイトデーに旅立った姉ちゃん。享年53歳。

毎年、バレンタインデーには息子達へだけでなく、私にもプレゼントしてくれて

いました。今年は入院前に買っていたくれてたようです。

先日、荷物をの整理をしていた義兄さんからもらいました。

お姉ちゃんから私への最後のプレゼント。

とても可愛い、私の大好きな水色の箱に入ったチョコレートでした。

食べられないなぁ、とも思いましたが、美味しく食べることにします。

 

ありがとうお姉ちゃん。安らかに。